藤田尚志・宮野真生子編『愛』 (ナカニシヤ出版)という本
『愛・性・家族の哲学』シリーズの第1巻。
philosophy(哲学)は「知を愛する」を語源とする。では逆に、「愛を知る」とは哲学の反対、反哲学なのだろうか。 愛を知ることもまたphilosophyの営みであるように思う。プラトンの『饗宴』、アレントの『アウグスティヌスの愛の概念』、レヴィナスの『存在の彼方へ』などなどでは愛について語られてきた。本書もまた愛を知る哲学の系譜に属するのだろうか。
帯には「「愛」の一語が秘めた深遠な思想史の扉を開く」とある。「愛」という一語は、「恋」という一語とも「恋愛」という二語とも違うのだろう。柳父章の「かつてこの国に「恋愛」はなかった」という言葉が思い出される。LOVEの翻訳語として当てがわれた「恋愛」は、「恋」と区別され、「高尚なる感情」を指すそうで、俗的に言えば、恋の下心、愛の真心といったところだろう。
子どもを「愛の結晶」と言ったり、あるいは子作りをmake loveと言ったり、「愛」という一語にはなにか子どもがまとわりついている。そのためだろうか、同性愛が否定的に捉えられているのは。子どもがいても愛のない関係、子どもがいなくても愛のある関係、「愛」とはなんだろうか。
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中島義道『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)という本
私の部屋に象はいない。これは全く以って正しい。しかし何か違和感が残る。それは私の部屋に象がいることの真偽が問われていること、すなわち真にせよ偽にせよ私の部屋に象がいることが前提にされていること、これだ!私の部屋に象が占める場所なんてそもそも無い!
「 ◯◯さんはご在宅ですか」と問われ、「いません」と答える。それは「今はいません」ということである。逆に言えば、「今ではないときにはいるかもしれません」ということである。◯◯さんが占める場所がここにあるからこそ、いないこと、不在が可能になる。
「このお皿にあったチョコレートケーキがない〜楽しみにしてたのに〜」という人に対して、「無いなんてことはない、ありありとお皿の上を空気が占めている」と言えば、確実に私の身体を目線が刺し貫き、やがて地獄の業火で焼かれること間違いなし!
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巻田悦郎『ガダマー入門』(アルテ)という本
悪いことをしてしまった、悪を為せるのはただ他者に対してのみである。
ある書店の哲学書コーナーで本を眺めていたら、爽やかな青年に声をかけられた、「哲学がお好きなんですか」と。書店で声をかけることもかけられることもまずほとんどない。しかしこと哲学に限ってはそうでもない経験がある。哲学書コーナーにはほとんど人がいないため、人がいればよく目立ってしまう。書店ではないが、図書館の哲学書コーナーで声をかけられ、フッサールで盛り上がったことがある。
声をかけてきた青年もその類いかと勝手に期待を膨らませ、「好きですよ」と応えた。すると青年曰わく、「僕もヨガとかのスピリチュアルに興味があるんですよ~」。私は静かにキレた。なにより私の勝手な期待を弄び裏切ったこと、「哲学に興味ある奴」を「スピリチュアルに興味ある奴」と同一視したことに対して。以下、会話。
私「その先生の本とかホームページとかあるんですか?」
青年「ないんですよ~先生が直接話して見込みがあるかどうか選ぶんですよ~」
私「先生が亡くなられたあとはどうするんですか?そんなにスゴい方の教えをあなたが教えられるものですか?ここにある哲学書の著者はほとんどくたばってますよ。それでも時間と空間を超えてきてますよ。だったらあなたの先生は著書を残すべきだ!先生のスゴさは歴史が証明してくれますよ!」
青年「…」
青年「僕も明日、髪を剃ろうと思ってるんですよね~ヨガってそういうとこもあるんですよね~」
おそらく青年は私の五厘刈りの頭を見て言ったのであろう。
私「だったらなぜ今まで切らなかったのですか」
青年「…」
本書はそうした解釈の葛藤、そしてその地平について考えた哲学者ガダマーの入門書である。はてさて、手元には青年の連絡先がある。明日、青年に、髪を切りましたかと聞いてみるべきかどうか…。
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河合香吏編『他者 人類社会の進化』(京都大学学術出版会)という本
裏表紙の帯には本書の意気込みが書かれている。
「今日「他者」は諸学問の流行テーマである。しかし本書はそれらの議論とは一線を画す。すなわち、一切の思弁を排し、ヒトとサル(そして他の動物)の参与的な観察事例にこだわった厳密な経験科学として、「他者」なるものを析出していく。哲学的な思索の対象としてではなく、個体と個体(集団と集団)の相互行為のプロセスとしての「他者」の中に、人類の社会性の本質を見る。」
確かに他者論と言えば、哲学者レヴィナスが想起されるだろう。レヴィナスと言えば、合田正人、内田樹だけれども、ここでは熊野純彦を挙げたい。彼はレヴィナスだけでなく、様々なテクストを通じて他者を論じてきた。そしていま現在、東大文学部長を務めている。本書の「一切の思弁を排し」や「哲学的な思索の対象としてではなく」という言い回しは、熊野に向けられている、もっと言えば、喧嘩を売っている、挑発していると、私は感じた。それはまた京都大学の東京大学に対する意気込みでもあるだろう。
以上