本買うゆえに我あり

買っただけで満足して何が悪い‼︎

藤田尚志・宮野真生子編『愛』 (ナカニシヤ出版)という本

    『愛・性・家族の哲学』シリーズの第1巻。
    philosophy(哲学)は「知を愛する」を語源とする。では逆に、「愛を知る」とは哲学の反対、反哲学なのだろうか。
    愛を知ることもまたphilosophyの営みであるように思う。プラトンの『饗宴』、アレントの『アウグスティヌスの愛の概念』、レヴィナスの『存在の彼方へ』などなどでは愛について語られてきた。本書もまた愛を知る哲学の系譜に属するのだろうか。
    帯には「「愛」の一語が秘めた深遠な思想史の扉を開く」とある。「愛」という一語は、「恋」という一語とも「恋愛」という二語とも違うのだろう。柳父章の「かつてこの国に「恋愛」はなかった」という言葉が思い出される。LOVEの翻訳語として当てがわれた「恋愛」は、「恋」と区別され、「高尚なる感情」を指すそうで、俗的に言えば、恋の下心、愛の真心といったところだろう。
    子どもを「愛の結晶」と言ったり、あるいは子作りをmake loveと言ったり、「愛」という一語にはなにか子どもがまとわりついている。そのためだろうか、同性愛が否定的に捉えられているのは。子どもがいても愛のない関係、子どもがいなくても愛のある関係、「愛」とはなんだろうか。

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油井大三郎『増補新装版 未完の占領改革: アメリカ知識人と捨てられた日本民主化構想』(東大出版会)という本

    学者でも若いイケメンがもてはやされる。しかし私の推しメンは本書の著者である油井大三郎、71歳。三國連太郎激似で、ただただ渋いのだ!買う理由がこれで悪いか!

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中島義道『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)という本

    私の部屋に象はいない。これは全く以って正しい。しかし何か違和感が残る。それは私の部屋に象がいることの真偽が問われていること、すなわち真にせよ偽にせよ私の部屋に象がいることが前提にされていること、これだ!私の部屋に象が占める場所なんてそもそも無い!
   「 ◯◯さんはご在宅ですか」と問われ、「いません」と答える。それは「今はいません」ということである。逆に言えば、「今ではないときにはいるかもしれません」ということである。◯◯さんが占める場所がここにあるからこそ、いないこと、不在が可能になる。
    「このお皿にあったチョコレートケーキがない〜楽しみにしてたのに〜」という人に対して、「無いなんてことはない、ありありとお皿の上を空気が占めている」と言えば、確実に私の身体を目線が刺し貫き、やがて地獄の業火で焼かれること間違いなし!

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巻田悦郎『ガダマー入門』(アルテ)という本

    悪いことをしてしまった、悪を為せるのはただ他者に対してのみである。
    ある書店の哲学書コーナーで本を眺めていたら、爽やかな青年に声をかけられた、「哲学がお好きなんですか」と。書店で声をかけることもかけられることもまずほとんどない。しかしこと哲学に限ってはそうでもない経験がある。哲学書コーナーにはほとんど人がいないため、人がいればよく目立ってしまう。書店ではないが、図書館の哲学書コーナーで声をかけられ、フッサールで盛り上がったことがある。
    声をかけてきた青年もその類いかと勝手に期待を膨らませ、「好きですよ」と応えた。すると青年曰わく、「僕もヨガとかのスピリチュアルに興味があるんですよ~」。私は静かにキレた。なにより私の勝手な期待を弄び裏切ったこと、「哲学に興味ある奴」を「スピリチュアルに興味ある奴」と同一視したことに対して。以下、会話。
    青年「僕がうつ病だったときに出会った先生がもうとにかくスゴい方で、先生のおかげでうつ病が治ったんですよ~先生と話してみませんか~本を読むのと人の話を聞くのでは全然違うと思うんですよ~」
私「その先生の本とかホームページとかあるんですか?」
青年「ないんですよ~先生が直接話して見込みがあるかどうか選ぶんですよ~」
私「先生が亡くなられたあとはどうするんですか?そんなにスゴい方の教えをあなたが教えられるものですか?ここにある哲学書の著者はほとんどくたばってますよ。それでも時間と空間を超えてきてますよ。だったらあなたの先生は著書を残すべきだ!先生のスゴさは歴史が証明してくれますよ!」
青年「…」


青年「僕も明日、髪を剃ろうと思ってるんですよね~ヨガってそういうとこもあるんですよね~」 
    おそらく青年は私の五厘刈りの頭を見て言ったのであろう。
私「だったらなぜ今まで切らなかったのですか」
青年「…」

    本書はそうした解釈の葛藤、そしてその地平について考えた哲学者ガダマーの入門書である。はてさて、手元には青年の連絡先がある。明日、青年に、髪を切りましたかと聞いてみるべきかどうか…。


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熊野純彦『マルクス 資本論の思考』(せりか書房)という本

    本書は前回言及した熊野純彦の主著と言っていいだろう。惚れ惚れする美しい本である。書店で見かけたら、ぜひ色あい、手触り、重さを感じて欲しいとともに、本書を書きながら、ハイデガーの『存在と時間』、カントの三批判書を並行して訳す人間が同じ時代を生きていることに驚嘆して欲しい。
    「はじめに」の最初の一行を読んで欲しい。この時代にこの一文で以って書き出す人間がいることにシビれて欲しい。生あるうちに本書を読み終えることはおそらく私には不可能である。数回試みたが、挫折した。しかしなんどでも挑戦したい。
    もうこれ以上なにも言うまい。

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河合香吏編『他者 人類社会の進化』(京都大学学術出版会)という本

    裏表紙の帯には本書の意気込みが書かれている。
「今日「他者」は諸学問の流行テーマである。しかし本書はそれらの議論とは一線を画す。すなわち、一切の思弁を排し、ヒトとサル(そして他の動物)の参与的な観察事例にこだわった厳密な経験科学として、「他者」なるものを析出していく。哲学的な思索の対象としてではなく、個体と個体(集団と集団)の相互行為のプロセスとしての「他者」の中に、人類の社会性の本質を見る。」
確かに他者論と言えば、哲学者レヴィナスが想起されるだろう。レヴィナスと言えば、合田正人内田樹だけれども、ここでは熊野純彦を挙げたい。彼はレヴィナスだけでなく、様々なテクストを通じて他者を論じてきた。そしていま現在、東大文学部長を務めている。本書の「一切の思弁を排し」や「哲学的な思索の対象としてではなく」という言い回しは、熊野に向けられている、もっと言えば、喧嘩を売っている、挑発していると、私は感じた。それはまた京都大学東京大学に対する意気込みでもあるだろう。

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荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)という本

    「勉強なんか勝手にやれ。やって、やって、やりまくれ!」という帯文はまさにその通り!勝手にやるさ!私が日本政治思想史家の丸山眞男について調べ始めたのもまさにそう。大学教員に丸山について質問したところ、丸山なんて読む必要がないと言われたのがキッカケ。丸山を題名にした書籍は80冊を超えるけれども、まだまだ論じ尽くされていない!
    本書は「在野研究者の生と心得」について書いている。丸山眞男言っていたじゃないか、「学問に活力を賦与するものは、むしろ学問を職業としない「俗人」の学問活動ではないだろうか」と。

以上