坂爪真吾『セックスと障害者』(イースト新書)という本
この著者にして、この著書あり!帯の写真には『切断ヴィーナス』!待ちに待った本だ!しかし障害者と性について私は複雑な気持ちになる。
障害者と一口に言っても、身体、知的、精神など、さらには男性と女性、それらにカテゴライズされない性的マイノリティーがいるのは当然で、障害者運動は主に身体障害のヘテロセクシャルの男性が担ってきた。それは社会の縮図でもあった。どういうことか。障害者差別に反対する一方で、性差別には鈍感ということ。男性障害者が女性介助者にセックスを迫り、自殺に追いやったこともある。
ただ女性解放運動と連帯していた時代には、そうした性差別を糾弾されて、自覚を促され、反省した人々もいる。けれども、世代交代する、いま現在はどうなのだろうか。障害者差別には敏感で、性差別には鈍感な男性障害者、男性介助者は私の周りにいる。私もその一人かもしれない。
本書がそうしたことに触れているのかどうかわからない。むしろ私が本書のタイトルをダシにして触れたことだ。いずれにせよ、楽しみな一冊である。
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鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)という本
タイトルからしてソソられる。肌を守るためとかそういうことではなさそうだ。帯文の「ファッションは魂の皮膚である!」にはシビれた。おそらく服の機能どはなしに服の意味の探究だろうか。
ひとは毎日、なんらかの服を着ている。数ある生地、色、メーカーその他もろもろから一つを選択している。服に関心がない人も例外ではない。毎日ジャージを着ていたら、それはこだわりと受け取られるだろう。服は否応なしに私を表現してしまう。服を着ることは選択することである。
服は他者の眼に曝される。他者にどう映るか、どう思われるかを気にする。他者と直に皮膚を重ねることに抵抗はあるだろう。しかしそこに服が介在することで他者とのより親身な接触が可能となる。服を着ることは他者への配慮である。
服を着ることは、自己と他者との世界を広げる戯れである、ってな内容を空想した。
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長島要一『森鷗外』(岩波新書)という本
副題は「文化の翻訳者」。翻訳者としての森鷗外に焦点を当てたものだろうか。
翻訳者が有名な作家であることはそんなに珍しくないかもしれない。たとえば村上春樹も翻訳者にして世界に知られた作家だ。してみれば、翻訳という営みには何かグレートなことが隠されているのかもしれない。
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加島祥造『「おっぱい」は好きなだけ吸うがいい』(集英社新書)という本
真意を測りかねるタイトルだ。女性が手に取ることも考慮しているだろうから、そのままの意味で受け取ってはいけない、たぶん。「おっぱい」と鉤括弧をつけるあたりからしても、比喩なのだろうと思う。やりたいことをやれ!ということか?にしても他に言い方があったろう。
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ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮文庫)という本
地下室で書かれた手記なのだろう。地下室というとジメジメした印象を受けるのは私だけかしらん。そんな場所で書く野郎は、根暗な卑屈野郎に違いない。
手記は日記とは違う。日々の出来事を書き連ねたものではなく、自分の体験や経験を書き連ねたもの。小保方女史の『あの日』も手記という体裁だ。
自分が体験したことを誇大妄想して、悦に浸るそんな話だと思う。
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