本買うゆえに我あり

買っただけで満足して何が悪い‼︎

カンタン・メイヤスー『有限性の後で』(人文書院)という本

    訳者千葉雅也の師であり、フランス哲学から中国哲学まで手がける「ヤバさ」全開の中島隆博がその誕生を言祝いだのが本書である。
    背表紙の帯には「事物それ自体の思考へ」とある。それは「事物それ自体を思考する可能性があるということの証明」らしい。カントは「物自体」という言葉を使って、「物自体」は認識できないが、その表面、現象は認識できるといったと思う。つまり有限性の認識である。「有限性の後で」というタイトルは、「無限性の前で」ということである。本書によっては、まだ無限性には至らないかもしれない。無限性に至るための準備運動なのだろう。副題は「偶然性の必然性についての試論」。「試論(essai)」というのは準備運動ということか。
    批評家である柄谷行人は、カントの「物自体」は「他者」であると言った。もちろんそこには「他者」は有限的にしか認識しえないという認識があっただろう。だとすれば、本書は「他者」をも認識しえることをも証明するのではないか。それはニュータイプの出現を予感させる。ニュータイプとは、そうガンダムのそれである。ニュータイプはある瞬間に他者を完璧に認識しているように描かれている。しかしニュータイプの人物の行動、言動がよくわからない、認識できないのは私だけだろうか。

以上