佐々木毅『政治学講義 第2版』(東大出版会)という本
パラパラとめくって気になること一点。旧版の参考文献では丸山眞男の「科学としての政治学」が挙げられていたけれど、第2版では挙げられていない。それが本文にどう影響しているのか、読んでのお楽しみである。
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宮内洋・好井裕明編『〈当事者〉をめぐる社会学』(北大路書房)という本
私はどうやら勘違いしていたらしい。当事者主体、当事者主体と言う割には、当事者無視が甚だしい人々。一体これはどうしたわけか。
彼らのいうトウジシャは当事者ではなかった。統治者だったのだ。統治者主体を彼らはずっと言っていたのだ。日本語ってムズカシイ。
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カンタン・メイヤスー『有限性の後で』(人文書院)という本
訳者千葉雅也の師であり、フランス哲学から中国哲学まで手がける「ヤバさ」全開の中島隆博がその誕生を言祝いだのが本書である。
背表紙の帯には「事物それ自体の思考へ」とある。それは「事物それ自体を思考する可能性があるということの証明」らしい。カントは「物自体」という言葉を使って、「物自体」は認識できないが、その表面、現象は認識できるといったと思う。つまり有限性の認識である。「有限性の後で」というタイトルは、「無限性の前で」ということである。本書によっては、まだ無限性には至らないかもしれない。無限性に至るための準備運動なのだろう。副題は「偶然性の必然性についての試論」。「試論(essai)」というのは準備運動ということか。
批評家である柄谷行人は、カントの「物自体」は「他者」であると言った。もちろんそこには「他者」は有限的にしか認識しえないという認識があっただろう。だとすれば、本書は「他者」をも認識しえることをも証明するのではないか。それはニュータイプの出現を予感させる。ニュータイプとは、そうガンダムのそれである。ニュータイプはある瞬間に他者を完璧に認識しているように描かれている。しかしニュータイプの人物の行動、言動がよくわからない、認識できないのは私だけだろうか。
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M・ピカート『沈黙の世界』(みすず書房)という本
沈黙するとは、お口をチャックすること、つまり噤んでいることを言うのだろう。噤んでいるだけか?
噤むということは同時に耳をすますこと、思考することでもある。耳を傾けるその先には何があるのだろう。再び口が開かれるとき、それは思考を停止し、思考が放たれるときである。そこから何が飛び出して来るのだろう。
背表紙の帯には「聖なる無用性」とある。すなわち沈黙とは「聖なる無用性」なのだろう。沈黙といえば、どこか消極的、受動的なイメージがつきまとうが、「聖なる無用性」として語られるところに、沈黙を積極的、能動的に捉えようとする意志が感じられる。沈黙は強いられることではない。強いられた沈黙は沈黙の名に値しない!逆に沈黙に強いてくる者に対しては、沈黙を破って否をつきつけろと言っているように解釈したい今日この頃である。
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