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本買うゆえに我あり

買っただけで満足して何が悪い‼︎

小森陽一編『夏目漱石、現代を語る』(角川新書)という本

    ななななに!漱石が2016年を語るぅぅぅ⁉︎今年は漱石が熊本に来た年から数えて、120年目の節目の年である。
    漱石の評論集である。もちろん「私の個人主義」も収められている。「私の個人主義」というからには、「あなたの個人主義」があってもいいのだろう。個人主義の多様性というよりは、一人一人が自分で考えろということか。

以上

藤田尚志・宮野真生子編『性』 (ナカニシヤ出版)という本

    『愛・性・家族の哲学』シリーズの第2巻。副題は「自分の身体ってなんだろう?」。確かに性別は身体を基準に決められてしまう。しかしである。身体を基準に性別を決めているのは、法ひいては政治ではないだろうか。性を、本性あるいは本質ぐらいの意味で使うならば、政治とは人間の本質を決めようとする営み、性治といってもいいのではないだろうか。

以上

先崎彰容『違和感の正体』(新潮新書)という本

    思考は違和感から始まる。世界は私と調和していない。いやそもそも私が私自身と調和していないから思考を始めるのかもしれない。
    思考を始めるのだろうか、思考が始まるのだろうか。違和を感じるだけでは、思考するのに足りない。違和感に違和に感じること、違和感に距離を持つこともまた思考が始まるのに必要なことかもしれない。
    丸山眞男は「違和感」ではなく、「異和感」を用いた。異和とは、異なりとは他者の別の謂いである。思考は他者と共に始まる。
以上

熊谷晋一郎✖️大澤真幸/上野千鶴子/鷲田清一/信田さよ子『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』(青土社)の本

    痛みはたびたび哲学で取り上げられる。痛みは極めて個人的なものであるにもかかわらず、人の痛みがわかる(ような気がする)のはなぜかという形で問われる。
    しかし人知れず痛みを覚えることもあるだろう。私の下唇と舌にできた口内炎の痛みは決して人に伝わることはない。痛がっていないからだろうか。痛がっても痛みではないものが伝わりそうだが。

以上

吉永和加『〈他者〉の逆説』(ナカニシヤ出版)という本

    帯文から、他者論を推し進めたら宗教に回帰するという逆説を妄想してみた。以下妄想。
    他者とは、端的に言って、私にはよくわからないものということである。理解できるものは、自己に属すのであって他者ではない。しかしなぜわからないものがあるのか。 
    それは宗教、いや神と関係あるように思う。昔からよくわからないものはあった。しかし神を通じて意味を与えた。神を通してつながった。 
    「神は死んだ」と誰かが言った。神を通じた意味、つながりが失われ、よくわからないものが現れた。他者を論じたサルトル無神論者だ。 
    他者論が逆説的に宗教に回帰するのは、他者を理解したい、つながりたいということなのではないだろうか。 
    日本においてそうした他者の契機を見いだすとすれば、天を不可知とした伊藤仁斎だろうか。

以上妄想終わり 

以上 

大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書)という本

    友人からの誕生日プレゼントで500頁もある本書をもらった。一体何を考えているのか。本の海を漂う私に本をプレゼントするとは、勇気ある友人だと思う。副題は「転形期サブカルチャー私史」、オタクである著者についての自伝だろうか。
    二階とは、一戸建てということであろうか。親が購入した一戸建ての二階を占拠し、我が世界と化していく過程にその時代の痕跡が刻みこまれているということだろうか。
    私はサブカルチャーにはサッパリである。子どものころから民放のメジャーなアニメを見ていたぐらいで、語れるほど入れ込むことはなかった。私以外の家族はアニメは子どもが見るものとの観念が未だ拭えない旧式である。私は決してオタクではない。これはオタクへの尊敬から言っているのである。あんなに夢中になって語れるものがあるのは羨ましいのである。
    思想家鶴見俊輔は『寄生虫』を勧められて読んだところ、夢中になって徹夜で読んだとか。批評家柄谷行人は寝る前に哲学書を読むと興奮して眠れなくなるので、『こち亀』を枕元に置いているとか。かくいう私は『ハガレン』の最終巻で、弟が自身の魂と兄の腕を等価交換する場面を読んで、全私が泣いている、絶対それ等価じゃないだろうとツッコミつつも。

以上
    

『うつくしいひと』という映画

    映画『うつくしいひと』。小林秀雄をもじって言えば、「ひとのうつくしさがあるのではなく、うつくしいひとがいるのである。」
    熊本を舞台に、熊本に縁のあるキャストで製作された「うつくしいひと」。これは現総理である安倍晋三が使っていた「美しい国」に対峙しているように見える。それはたとえば政治思想史研究者の姜尚中を起用していることからしても見てとれる。
    「美しい国」がナショナリズムを掲げるのに対し、「うつくしいひと」は熊本という郷土を根っこにしたパトリオティズムを掲げる。つまり国に根ざすことはできないどころか、根無し草にならざるをえない。そうした日本の根無しは、「美しい国」すなわち「美国」は中国語、朝鮮語でアメリカを意味するという揶揄にもあらわれている。「うつくしいひと」を全て平仮名にしたことでかえって日本の文化に根差そうとしたのはそれへの対抗か。
    なによりも「国」ではなく「ひと」を中心にすること、郷土に根差したパトリオティズムを根拠にすること、それらはまた安倍晋三が根無し草であることも暴露する。そうしたことを妄想してしまう今日この頃である。

以上