保坂展人『相模原事件とヘイトクライム』(岩波ブックレット)
事件からちょうど5カ月目を迎える今月26日に津久井やまゆり園の献花台は閉じられるそうだ。
事件後の報道にはやはり違和感があった。それは事件そのものだけでなく、施設では19歳から70歳までの人が集団生活しているということに誰も突っ込まなかったように思う。これが障害者でなければ、うさんくさい施設として見られるだろうに。
容疑者が元職員だったことから、優生思想で片づけられない部分があるのではないかと思う。支援者が加害者になるのは、今回に限らず、親による障害児殺しもある。こうした暗さをもっと見つめなければならない。
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朴忠錫『韓国政治思想史』(法政大学出版局)という本
いま私の目の前に一冊の本がある。『[제2판]한국정치사상사』(『[第2版]韓国政治思想史』)。初版は1982年に刊行され、第2版は2010年に刊行された。来月刊行される本書はおそらく第2版の日本語訳だと思われる。内容に入る前に縦横無尽の参考文献を一目でも見ることをお勧めする。さすが丸山眞男から薫陶を受けた方である。
本書の刊行が残念でならない。この手で訳したかった。だから原書が目の前にあるのだ。しかし本書の刊行はまた私の目に狂いがなかった証拠でもある。それがせめてもの慰めである。
最後に原書の裏表紙にある文章を載せて、私の役割を果たそう。もちろんわれながら拙い訳である。
「一つの民族の文化・思想とは、その民族が開拓した領域である。一つの民族の文化・思想は、歴史的にその民族を構成している構成員の思考と行為の外化であり、またその蓄積だ。そのようにして民族の構成員のだれもが外化の蓄積の中で生きており、またこれと同じような意味で民族の構成員は歴史的現在の中で生きている。私たち韓国人も例外ではない。いわば人間は誰でも自分が属している社会の、硬直した文化・思想のしがらみの中で生きているだろう。しかし現実の人間の多くは、自分自身が属している民族の文化・思想に背き侮る傾向がある。そのような姿勢は自分自身が誰かを、自分自身の正体が何かを知らないまま生きているということだ。
韓国政治思想史研究は韓国人が歴史的に開拓した文化・思想の基底にある思考方式が何であり、ひいては政治に対する思考方式が何であるかを深く研究する学問分野である。韓国政治思想史研究の方法は、何はともあれまず対象を内在的に捉えなければならない。 」
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横田弘『【増補新装版】障害者殺しの思想』(現代書館)という本
この事件を聞いたとき、本書がすぐに思い浮かんだ。今回の事件に引きつけて目次を見るならば、興味深い章や節が目につく。「障害者殺しの事実」、「殺されたほうが幸せか」、「本来あってはならない存在か」、「福祉従事者との話し合い」。
帯文にある森岡正博の言葉は核心をついている。脳性マヒの著者は「ほかならぬ自分自身の心の底にある優生思想と対峙」している。それはまた私のなかにも優生思想があるということでもある。
今回の事件がセンセーショナルであるばかりに、全国紙の一面を飾るけれども、先月も全国紙の隅に親による障害児殺しの記事があった。そうしたことがさも過去にしかなかったかのように考える当事者団体は少なくないだろう。
加害者の動機が明らかになるにつれ、一部を分かってしまう自分がいる。まずはそうした自分を認めた上で対峙していこう。
「最善」を追求するあたり、加害者はある意味で自分に正直過ぎるように思われる。「善かれ」と思ってやる善人より、やる事なす事が悪になりうるかもしれないと自覚をもつ悪人でありたい。他者と共にあるために必要なこと、それは「偽善」だと丸山眞男も言っていた。
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斎藤美奈子『学校が教えないほんとうの政治の話』(ちくまプリマー新書)という本
裏表紙には次のように書いてある。「政治参加への第一歩は、どっちがホームで、どっちがアウェイかを決めること。」
法哲学者カール・シュミットは『政治的なるものの概念』で、政治を敵と味方を区別することと定義する。いわゆる友敵理論だ。その意味で本書は正面から政治を論じているだろう。しかしそれだけではない。さらに裏表紙には続けて次のように書いてある。「この本を読んで、あなたの政治的ポジションを見つけてください。」
日本政治思想史家丸山眞男は『日本の思想』で日本において基軸が無いことを指摘した。つまり読者にポジション発見を促そうとする本書は日本的文脈なるものをも踏まえているだろう。
友・敵をホーム・アウェイと言い換え、軸をポジションと言い換える著者の技量には参った。流石『紅一点論』の著者である。「ほんとうの政治の話」には違いない。
こうした政治の話を「学校が教えない」のは和気あいあいを求めるからだろうか。しかし思考が異なりから、他者から始まるのであれば、むしろこうした話こそが必要になる。18歳選挙権のニュースで「主権者教育」が盛んに言われるけれども、主権者はなにも18歳以上に限らず、国民主権ならば生まれたときから主権者である。
食べるのが遅かったので給食時間がもっと欲しかった。すぐに片づけて昼休みの時間に突入する毎日が忙しなかった。よく噛んで食べましょうなんて嘘っぱちじゃねえか、食べるスピードはそれぞれだろう。子どもながらに不満を覚えた。子どもは政治がしたいのだ!
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アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』(講談社学術文庫)という本
いま話題の石田純一は昨年夏のデモに参加した際、「戦争は文化ではない」と言って人々の耳目をさらった。この発言はかつての自身の発言とされた「不倫は文化だ」のパロディであり、彼のユーモアを余すところなく存分に披露した。
しかし「戦争は文化ではない」という発言に近いことをかつてフロイトはアインシュタインに向けて綴った。それが本書だ。いわく「文化の発展を促すものはすべて、戦争に立ち向かうことにもなるのだと言えます」。つまり「反戦争は文化だ」。
内村鑑三は日清戦争に当初は賛成したものの、戦後に批判している。その批判のなかで、戦争勝利によって得たものといえば伊藤博文は妾でも増やしたことぐらいではないかと揶揄した。内村には妾と不倫とは同じことだったのだろう。だとすれば、不倫も文化ではないかもしれない。
以上